ヘブライ語旧約聖書翻訳研究

ヘブライ語と英語のインターリニア旧約聖書を日本語訳にしています。

古代ローマ

古代ローマ

古代ローマ(こだいローマ、羅: Roma antiqua)は、イタリア半島中部に位置した多部族の都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称である。

概要
古代ローマの当時の正式な国号は元老院ならびにローマ市民(Senātus Populusque Rōmānus)であり、共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。
伝統的には476年のロムルス・アウグストゥルスの退位で古代ローマの終焉とすることが一般的であるが、ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される554年までを古代ローマに含める場合もある。
ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し続け、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、今日まで影響を与えている。

時代区分

王政期{詳細は「王政ローマ」を参照}
紀元前753年(建国)から紀元前509年まで、トロイア戦争におけるトロイア側の武将で、トロイア滅亡後にイタリア半島に逃れてきたアイネイアースの子孫であるロームルスに始まる伝説上の七人の王が治めていた期間(伝承による)。
古代ローマでは、アイネイアースが、トロイア滅亡後、詩、音楽、医学、貿易、政治システムを持って、イタリア半島に逃れて、古代ローマを建国したという物語は、古代ローマ古代ギリシアの歴史とつながる長い連続と価値づけられ、非常に重要と考えられていた。

初期の4人の王はローマ建設時の中心となったラテン人とサビニ人から選ばれているが、その後の3人の王はエトルリア人出身であるとされる。これは初期のローマにおいてエトルリア人による他民族支配を受けていたことを示すと考えられている。


共和政期{詳細は「共和政ローマ」を参照}

BC44年カエサル統治下の共和政ローマの版図
紀元前509年から紀元前27年まで、ローマがイタリア半島の一都市国家から地中海の全域に属州を持つ帝政になるまでの期間のこと。
政治は元老院と執政官ら政務官を中心として、民会などで一般ローマ市民の意思も反映されながら民主的に運営された。

共和政初期
ルキウス・ユニウス・ブルトゥスによる王政の打倒からイタリア半島の中部・南部を勢力に加えるまでの期間。
政治的にはパトリキプレブスの身分闘争とその決着が知られている。

共和政中期
三次に及ぶカルタゴとのポエニ戦争の時期。
セレウコス朝アンティゴノス朝といったヘレニズム諸国との戦争での勝利によって属州を獲得しその勢力圏を広げていった時期。

共和政末期
グラックス兄弟の改革と死、その後の内乱の一世紀を経て、アウグストゥスによる帝政の樹立までの期間。
ローマで最も史料が豊富な期間の一つである。


帝政期
ローマ帝国の最大版図{詳細は「ローマ帝国」を参照}

初期{プリンキパトゥス」も参照}
いくつか分け方が存在する。

アウグストゥスからはじまるユリウス=クラウディウス朝からフラウィウス朝までとするもの。
1. に五賢帝の時代を加えるもの。
2. セウェルス朝なども加えディオクレティアヌスの即位までを帝政初期として帝政全体を二つに分けるもの。
2. の区分が比較的多い。

中期
セウェルス朝から始まり、軍人皇帝時代を経て、ディオクレティアヌス帝が即位するまで。

後期
「ドミナートゥス」および「古代末期」も参照
ディオクレティアヌスの即位を開始とする。そのまま西ローマ帝国の滅亡までを帝政後期としてくくることも多いが、テオドシウス1世の死後に帝国が東西に分裂した後は、通常は西ローマ帝国東ローマ帝国としてわける。

後期以降の時代は皇帝による専制や君主崇拝が強められ、専制君主制(ドミナートゥス)と呼ばれる。

コンスタンティヌス1世のミラノ勅令によってキリスト教が公認され、徐々にローマの支配イデオロギーの中の枢要な部分を占めるようになっていった。


東西分離後

ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青)。青と緑色部分はトラヤヌス帝時代のローマ帝国最大版図。赤線は東西ローマの分割線

西ローマ帝国
詳細は「西ローマ帝国」を参照
その滅亡をもって、ヨーロッパ史では古代と中世との境界とする場合がある。

東ローマ帝国
詳細は「東ローマ帝国」を参照
その滅亡を以って、ヨーロッパ史では中世と近世の境界とする場合がある。


古代ローマにおける戦争・戦闘
Category:古代ローマの戦争
Category:共和政ローマの戦争
Category:ローマ帝国の戦争
Category:古代ローマの戦闘
Category:共和政ローマの戦闘
Category:ローマ帝国の戦闘
ローマ軍団
古代ローマ期の人物・家について
Category:古代ローマ人
Category:古代ローマの人名
共和政ローマ執政官一覧
帝政ローマ初期執政官一覧

ローマ皇帝一覧
パーテル・ファミリアス(英語版) - イタリアの氏族において、ある氏族の長であり通常はその最年長の男性のことを意味する。氏族制度は「十二机法」に規定されており、氏族の長は、法により制限されるようになるまでは、奴隷を含む氏族の構成員に対する生殺与奪の権利(ius vitae necisque)を有していた[注 1]。家父長制(パトリアーキ)や、明治から昭和前半の日本にあった家制度でいう家督に似る。


アイネイアース トロイアの武将

アイネイアース(古希: Αἰνείας, Aineiās)あるいはアイネアース(古希: Αἰνέας, Aineās)は、ギリシア神話およびローマ神話に登場する半神の英雄である。ラテン語ではアエネーアース(Aenēās)と表記される。日本語では長音記号を省略しアイネイアス、アイネアス、アエネアスとも呼ばれる。

トロイア王家の人物アンキーセースと女神アプロディーテーウェヌス)の息子。トロイアの王プリアモスの娘クレウーサを妻とし、息子アスカニオス(アスカニウス、別名ユールス、イウールス)をもうけた。

アイネイアーストロイア戦争におけるトロイア側の武将で、トロイア滅亡後、イタリア半島に逃れて後のローマ建国の祖となったといわれる。古代ローマでは敬虔な人物として知られていた。彼を主人公とした作品に詩人ウェルギリウス叙事詩アエネーイス』がある。


神話
アイネイアースの誕生
アイネイアースはアンキーセースとアプロディーテーの息子である。
トロイアの名祖トロースに3人の息子イーロス、アッサラコス、ガニュメーデースがおり、そのうちイーロスの孫がトロイアの王プリアモスである。
一方、アイネイアースの父アンキーセースはアッサラコスの孫であり、したがってアイネイアーストロイア王家の傍系にあたる。

アイネイアースの母がアプロディーテーであることは『イーリアス』の中でしばしば述べられ、ヘーシオドスも『神統記』で述べており、古くから知られていた
ホメーロス風讃歌』によれば、ゼウスはアプロディーテーが神々を人間と結びつけているのを見て、アプロディーテーが自慢したりしないようにアンキーセースへの恋を吹き込んだのでアイネイアースを身ごもったという。
アイネイアースの名の由来はこの時、アンキーセースがアプロディーテーの正体を知って大いに恐れたことによる。
アイネイアースは生まれると5年間ニュムペーに育てられたのち、アンキーセースのところに連れてこられ、その後、姉ヒッポダメイアとその夫アルカトオスのところで育てられた。
成長したアイネイアースは常に神を敬う人物だったので多くの神々の援助を得た。アキレウスがイーデー山を攻撃したときアイネイアースはミュルソーネスに逃げた。
アキレウスはさらにミュルソーネスを滅ぼしたが、ゼウスは彼を逃がし、以降トロイア戦争に参加した。トロイア戦争ではヘクトールに次ぐ武勇を謳われた。


イタリアへの旅

炎上するトロイアから脱出するアイネイアース(1598年画、ボルゲーゼ美術館所蔵)
木馬の計略によってトロイアが陥落した際、アイネイアースは父アンキーセースを背負い、幼いアスカニオスの手を引いて燃える都から脱出した。
トロイアの船団はデーロス島で祖先の地を目指せとの託宣を得て、初めはトロイアの始祖テウクロスの来たといわれるクレータ島に上陸した。
しかし、クレータではなく同じくトロイアの祖先ダルダノスが住んでいたとされるイタリア半島が目指すべき場所であることを知り、改めて海に出た。
アイネイアースメッシナ海峡を避けシケリア島を時計回りに迂回するコースを取りイタリアを目指したが、途中寄港したドレパヌム(英語版)(ドレパノン)で父アンキーセースが病死した。

その後、女神ユーノー(ヘーラー)が起こした嵐のせいでコースを大きく外れるが、ネプトゥーヌス(ポセイドーン)に助けられて北アフリカに漂着する。
この地でアイネイアースカルタゴの女王ディードーと出会い、互いに愛し合うようになる。
しかし、これを見たユーピテル(ゼウス)がメルクリウス(ヘルメース)を派遣してトロイアの再興のためにイタリアへ渡るよう警告する。
神意を受けアイネイアースカルタゴを去り、残されたディードーは自殺した。

イタリア半島に到着後アイネイアースはクーマエ(キューメー)で、巫女シビュラ(シビュレー)の導きによって冥界に入り、そこで、亡き父アンキーセースと再会した。
アンキーセースは、アイネイアースの子孫が未来のローマの英雄となることを告げた。
冥界から戻ったアイネイアースは、北上し新たなトロイアを築くべき土地であるラティウムに上陸した。

この地で現地の王ラティーヌスの娘ラウィーニアと婚約をするが、それまでラウィーニアと婚約していたアルデアの王トゥルヌスはこれに反対してトロイア人とトゥルヌスの率いるルトゥリー人との間で戦いが起こった。
アエネーイス』では周辺のラティウムの都市もトゥルヌス軍に加わり、ラティーヌスも自ら望まぬながらもトロイア人に敵対した。
さらにトゥルヌスにはエトルリアの王メーゼンティウス(英語版)も助勢した。
一方、アイネイアースラティウム人と敵対していたアルカディア人を率いるパッランテウム(パランテイオン)の王エウアンデル(エウアンドロス)を味方とし、その息子パッラス(パラース)が軍勢に加わった。
また、僭主であったメーゼンティウスを追放したエトルリアの諸都市もアイネイアースに助勢した。
こうした両者の間で激しい戦いが行なわれ、パッラスやメーゼンティウスなど多くの将が命を落とした。
最終的にはトゥルヌスとアイネイアースとの一騎討ちでアイネイアースがトゥルヌスを殺し、戦いは終わった。アイネイアースはラウィーニアと結婚し新市ラウィニウムを築いた。

アエネーイス』の影響でこの伝承が一般的となっているが、ティトゥス・リウィウスによると細部が異なる。アイネイアースラティウム到着後、ラティーヌスからラウィーニアを妻としてもらい同盟を結んでいる。
このことを不服としたトゥルヌスがアイネイアースとラティーヌスに戦いを挑むが、この戦いはトロイア方が勝利する。
しかし、勝利したアイネイアース側もラティーヌスをこの戦いで失った。
敗れたトゥルヌスはメーゼンティウスの率いるエトルリア人の助けを得、再びトロイア人とラティウム人に戦いを挑む。
この戦いでも再びアイネイアース側が勝利したが、アイネイアース自身は戦死したとしている。
他方、オウィディウスの伝えるところによれば、アイネイアースはその死期に臨んでウェヌスによって身を浄められて神となったとされる。


伝承成立の側面
紀元前4世紀ごろからローマ人の間でアイネイアースの伝承が普及したと考えられている。
しかし、その伝承を壮大な叙事詩に歌い後世に大きな影響を与えたのは、ウェルギリウスの『アエネーイス』である。
詩人達のパトロンであり、アウグストゥスの友人でもあったガイウス・マエケナスは、詩人達にアウグストゥスを称えた詩を作るよう要請していた。
ウェルギリウスはこれに応え、アウグストゥスが属したユリウス氏族が祖先と主張するアイネイアースを長編の詩に詠うことによって、アイネイアース伝承を豊かにし、ユリウス氏族の使命を神秘化することによって、アウグストゥスによる元首政を堅固なものにすることに寄与した。

因みに伝承ではアイネイアースの長男アスカニウスは父と新しい母と離れ、遠方の土地にアルバ・ロンガを築いた。
後にこの都市は義母と父との間に生まれた異母兄弟のシルウィウスに譲られ、シルウィウスの遠い子孫であるロームルスとレムスの双子の兄弟がローマを建国する事になる。
つまりラテン人とトロイア人の血を引く王家に端を発する訳であるが、これもより古い民族と自民族の関連を望んだ民族神話の一種であろう。


アイネイアース神話の成立
古代ローマにおけるアイネイアース神話は、紀元前4世紀にラティーヌス神話をそっくり模倣したものであると考えられている。
ティーヌスは、ラテン人が毎年アルバーノ山(現カーヴォ山(フィンランド語版))でユピテル・ラティアリス神に犠牲を捧げる時、神話上の父祖たる王を呼ぶとき使った名称である。
現に、ラティーヌスの名が記された紀元前6世紀の文字が記された土器の破片が出土している。
また、ローマ西方の海岸のラウィニウム(現プラティカ・ディ・マーレ(イタリア語版))で発掘された墳墓はラティーヌスに奉献されたものと考える研究者もいる。

 

ロームルス

ロームルス(Romulus、紀元前771年 - 紀元前717年7月5日)は、ローマの建国神話に登場するローマの建設者で、伝説上の王政ローマ建国の初代王である。
レムスの双子の兄弟。ロムルスとも呼ばれる。

ラテン人貴族の子としてアルバ・ロンガに生まれ、大叔父アムーリウスを倒して祖父ヌミトルをアルバ王に復位させるなど、様々な冒険を経てローマを建国した。
最初の国王として元老院や軍団(レギオー)、七つの丘の城壁など古代ローマの根幹となる概念を整備した。

また、勇敢な王であり他のラテン都市やサビーニー都市を征服して国を豊かにしたが、同時に強権的な王として元老院とは対立したという。


伝承
ロームルス王と弟レムスの伝承は多くの場合、史実というよりは何らかの背景を持って伝承された神話と考えられている(ローマ神話)。
記述者によって細かい部分が異なるが、基本は同じ内容になっている。

アルバ王家の内紛
プルータルコスによれば、古代ギリシア人との戦いで滅んだトロイアの末裔アイネイアースと、ラテン人の女王ラウィーニアとの間に生まれたシルウィウス王の末裔によって代々ラティウムは治められていた。
彼らはシルウィウス王の異母兄弟アスカニウスが築いた都市アルバ・ロンガに王宮を持っていた事からアルバ王と呼ばれていた。

シルウィウス王から11代後のアルバ王プロカが亡くなると王位は長子ヌミトルへと引き継がれ、次男アムーリウスは王位の代わりに祖先アイネイアースが持っていたというトロイア王家の財宝を受け継いだ。
だが、王位を欲したアムーリウスはその財宝を駆使して貴族や軍を味方につけ、兄を追放して王位を奪い取った。

王となったアムーリウスはヌミトルの一人娘で姪であるレア・シルウィアを神殿に命じてウェスタの巫女とした。
巫女は神に体を捧げる聖職者である事から婚姻や姦通を許されず、これで兄の血筋を断絶させようと目論んでいたのである。
異説ではシルウィアを手篭めにしようとして失敗したとも言われている。

神殿に軟禁されたシルウィアであったが、その美しさを気に入った軍神マールスに見初められる(ヘーラクレースとする伝承もある[要出典])。
神であれば巫女でも身を捧げても良いと考えたシルウィアは契りを結び、双子の子供ロームルスとレムスを授かる。

アムーリウスはシルウィアの言い分を認めず、王位を継ぎうる双子の子を殺すように兵士に命じる。
だが、兵士は幼い双子を哀れんで、彼らを籠に入れて密かに川へと流した。


双子を拾うファウストゥルスとアッカ・ラーレンティア(ピエトロ・ダ・コルトーナ画)

狼の双子
ティベリス川の精霊ティベリーヌスは川を流れる双子を救い上げ、川の畔に住む雌狼に預ける。
やがて羊飼いファウストゥルスが双子を見つけると、妻アッカ・ラーレンティアと相談して引き取ることにした。
彼の妻であるアッカ・ラーレンティアの正体は女神ケレースであり、ヘーラクレースからの意向を受けてファウストゥルスの妻となり、双子を拾うように仕向けたという説もある。
このエピソードは双子の印象を決定付けるものであり、狼の乳を吸う双子の像は二人の伝承を示す一般的なものである。


アルバ戦争

ロームルスと羊飼い達
神話の全ての版はロームルスが羊飼いとして成長したと伝えている。 
ある時、弟レムスがアムーリウス王の配下と諍いを起こし、兵士に捕らえられて宮殿に連れ去られる。
その過程でロームルスとレムスは自分達がアムーリウス王の大甥で、幽閉されている先王ヌミトルの孫である事を知る。
ロームルスは弟と祖父を助ける為に剣を取り、アムーリウスと敵対する羊飼いらを率いて王宮へと攻め入った。

激しい戦いの末、アムーリウスは双子の兄弟によって討たれ、囚われていたヌミトルは解放された。
ヌミトルは二人の孫に王位を継ぐように勧めたが、彼らは祖父が王位に留まるべきだと述べた。
ロームルスは母シルウィアに別れを告げると、自らの王国を興すべくレムスと宮殿を後にした。
二人の後には双子をアルバ王と認めた貴族や、彼らの武勇を聞いた兵士達が従っていった。


レムスとの決闘

新しい王国を作り上げるために、この双子の兄弟はどのような土地が相応しいか議論を交わした。
レムスはアウェンティヌスの丘に城壁を築くべきだと進言したが、ロームルスはパラティーノの丘が適切であると考えていた。
二人は神の啓示で決めようと話し合い、二つの丘にそれぞれ祭壇を用意した。
先にレムスの祭壇には神の僕である鷲が6羽舞い降りたが、少し後にロームルスの祭壇には12羽の鷲が舞い降りた。

ロームルスはより多い鷹が来た事から啓示は自分に下ったと考えて、パラティーノ丘に街の建設を始めた。
兵士達は丘の周りに城壁と国境線を兼ねた溝を掘り、住居や農地を切り開いていった。
だがレムスは数は少なくとも、先に鷲が舞い降りた自らの方こそ神の啓示を受けたのだと譲らなかった。
何時しかロームルスはレムスと口論を重ねる様になり、兄弟仲は非常に悪くなっていった。

そして、ある時、レムスは兄に対する侮辱として国境の堀を飛び越えて見せた。
後代の歴史家リウィウスによれば弟の挑発にロームルスは激怒し、レムスと決闘を行う事になった。
共に武勇で知られる兄弟であったがこの戦いではロームルスの方が勝り、レムスは命を落とした。
弟の亡骸を前にしてロームルスは、「この壁を越えようとする全ての者に災いあれ!」と祈りを捧げたという。

リウィウスは同時に後世にはもう一つの伝承が残っているとも書き残している。
その伝承では壁を乗り越えたレムスを殺めたのはファビウスという将軍だった。ロームルスファビウスの行動を認めつつも、弟の死を悼んで丁重に埋葬したという。

ローマ建都
レムス没後、ロームルスは都市を完成させるとその街をローマと名付た。
古代ローマ文明にとっての第一歩が踏み出されたのである。

国作りにあたってまずロームルスは配下の軍勢を整備することを決め、3000名の歩兵と300名の騎兵を選抜して彼らにレギオー(ローマ軍団)という名称を与えた。また、貴族に関しても100名の大貴族からなる元老院を作り、彼らと意見を交わす事で有力貴族を国王の支配下に収めた。
彼らは他の貴族から区別される形で父を意味するパーテルと呼ばれ(この語から後の貴族を意味するパトリキという言葉が生まれる)、王に次ぐ存在として国政に携わった。

パトルヌスとクリエンテスという、一種の主従契約に基づいた独特の社会階層も形成されていった。

ローマには周辺にある他のラテン人都市から次々と移住者が訪れて、急速に発展していった。
ロームルスは人口増加に対応すべく、かつて弟レムスとの諍いの元となったアヴェンティヌスの丘を含めた7つの丘に新しい居住区を築いた(ローマの七丘)。
そして、これらを囲む城壁が建設され、今日のローマ周辺部の基礎が出来上がった。

ロームルスは順調にローマを豊かにしていったが、居住者が男性に偏っている事が悩みの種であった。
祖父であるアルバ王ヌミトルに相談すると、ヌミトルはラテン人と縁深いサビーニー人と交流してみてはどうかと提案した。
ロームルスは早速ネプトゥーヌスを祭る催しに同じラテン人の国々だけでなく、サビーニーの国々を招待する事にした。

祭りは盛大に行われたがラテン人の力を恐れるサビーニー人達は申し出を断り、それどころか同じラテン人の国々も新興国ローマを警戒して女性の移民を控えるとした。
これに怒ったロームルスは祭りに来ていた国々の娘達を力ずくでローマへと連れ去り、妻を持たぬ男達へと嫁がせる行動を起こした。(サビーニーの女達の略奪)


サビーニー戦争
娘を攫われたラテン人の国々やサビーニー人はローマを非難したが、ロムルスはこれを一蹴した。ローマの蛮行にカエニナ、アンテムナエ、クルスツメリウスというローマと敵対する3つのラテン人・サビーニー人の国が挙兵して、ローマ最初の大規模な対外戦争が勃発した。


カエニナ王の鎧を神に捧げるロームルス(ドミニク・アングル画)
ロームルスはレギオーを率いて戦争に赴き、ローマに攻め入ってきた諸国軍を悉く打ち破った。主力であったカエニナ王国の王アークロンは戦場で討ち死にし、ロームルスはアークロン王が身に着けていた鎧を戦勝物(スポリア・オピーマ)として、主神ラティーヌスに捧げたと伝えられている。ロームルスは同胞であるカエニナ王国に寛大に接し、彼ら全てをローマ王国の民として取り込んだ。続いてアンテムナエとクルストゥメリウスもローマに破られ、併合された。

やがて様子を見ていたクレースの王ティトゥス・タティウスに率いられた軍勢がローマとの戦いに参加した。タティウスはローマの一角を占めるカピトリヌス丘への攻撃を行った。丘の守備隊はクレス軍の攻撃を退けたが、タティウスは指揮官の娘タルペーイアを篭絡して開城させた。タルペーイアはタティウスから協力すれば礼として「兵士達が身につけているもの」を渡すと言われ、これを兵士達が身に着けている金の腕輪と考えていた。しかし兵士達は腕輪ではなく盾をタルペーイアに投げつけ、彼女は盾に押し潰されて死んだ。

タティウスの策謀でカピトリーヌス砦を奪われたロームルスは主力軍を引き返し、両軍は都市中心部の大広場で激突した。戦いでは最初ローマ軍が不利を強いられ、ロームルスは父祖ラティーヌス神に勝利を祈ったと伝えられている。翌日、ローマ軍が反撃に転じて戦局は逆転、敗れたクレス軍はローマから敗走していった。直ちにローマ軍はクレス軍への追撃を開始したが、そこに連れ去られていた住民の内、サビーニー系の人々がロームルスにサビーニーの国々に寛大な処置を行うように嘆願したという。

ロームルスはクレース王ティトゥス・タティウスを共同王に迎え、サビーニー人の有力貴族に元老院議席を与える事を対案にサビーニー全土を併合した。

突然の死
伝承はロームルスが突如として豪雨の中にその姿を隠した事で終わりを告げる[3]。誰かに暗殺されたのではないかとする者もいれば、神として天に戻ったのだとする者もいたという。

歴史家リウィウスは以下のように書き残している。

人々はロームルス王の死を嘆き悲しみ、何人かの貴族は王を神として神殿に祭るべきだと主張した。王の葬儀に参列した貴族や民衆は口々にこれに賛同した。僅かな王の敵対者は元老院と王が不仲であった事との関係を噂したが、王に対する民衆や貴族の尊敬に変わる所はなかった。民衆は次第に元老院を憎んで、強権的な王であったロームルスを疎んで殺したのだと噂するようになった。これに対して元老議員ユリウス・プロクルス(ユリウス氏族の祖先とされる)は元老院で演説を行った。「ロームルス陛下は神となられた。…我々の父にして王たる人物は昨夜、私の枕元に現れた。畏怖と敬意を抱いた私は王にその御顔を拝見する事を乞い、王はこれを許された。王は私にローマの繁栄を民に託すと述べられると、神として天に昇られたのだ」[4]

リウィウスはロームルスは暗殺された可能性が高いと見ており、ユリウス・プロクルスは神格化を行う事で罪の追及を免れようとしたのだと推測している。共和制末期の政治家キケローはプロクルスは貴族ではなく一介の平民で、貴族達に押されてロームルスの夢を見たと証言したという説を主張した。またキケローのロームルス暗殺と神格化に関する論考は彼の著作によって広く知られる所となっている[5]。

帝政期の歴史家カッシウス・ディオは前者二人より更に具体的にロームルスは暗殺されたと論じている。彼の著作『ローマ史』で冒頭に位置するロームルス王の評伝において以下のように述べられている。

ロームルス元老院議員によって議場で暗殺された。ロームルスの身辺には警護兵が居たが、日食と豪雨によって暗殺は巧妙に隠蔽された。ユリウス・プロクルスはロームルスを神格化する一方で新しい王選びに奔走した。王をラテン貴族から選ぶか、元老院で第二勢力となっていたサビニ貴族から選ぶかは難しい問題だった。結局、ヌマが即位するまでの間は実質的に元老院が統治を代行した[6]。

元老院によってロームルスはクゥイリーヌス神の化身であり、俗世での目的を果たして天に帰ったものとされた。

 

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